がばい素晴らしい桜咲く

今日は、少し肌ざむい。プールに行った後、用事を一件。散歩の時間がずれ込んだ日。
桜が満開を迎えている。
 春へようこそ。。と桜が
ささやいている。
暗くなるまでまって。。
君をきれいに照らしてあげよう。。そんな感じか。。
がばい素晴らしい桜だ。がばいと言えば。。

こないだ島田洋七さんが、がばいばあちゃんの話をしていた。
人気絶頂が5年つずき、人気も下火になって、おばあさんに会ったとき、(頂上は写真とって帰ってくるもんだ。いつまでもいるところではない。人生山あり、谷ありだけど谷は自分で降りていけ。谷にはきれいな水が流れておる。きれいな谷の水をのめと。
このおばあさんは、ほんとうにすごい。どうしてなんだろうと思っていたところ
3月〜4月またぎで、読んだ本(知ることより考えること。著書 池田晶子
のなかでにこんな文章があった。以下 中略 本文より。。
私は時々思うのだが、もし賢い人間になろうと思うなら、あるいは賢い人間に育てようと思うなら、人間には学力などない方が良いのではないか。いや、極論すれば、字など読めない方が良いのではないか。ちょっと考えれば気がつくことだが、我々は字が読めるがために、自力で考えるということをほとんどしていない。たとえば天才が一生かけて考えたことを記した本、これを我々は一時間で読む。字を読んだと言うそのことだけで、それを
知ったような気になってしまうのである。言葉と言うのは両刃の剣で、人を考えさせなくする機能も併せ持つ。
だから、この伝でなら、ひょっとしたら、字が読める人よりも字が読めないとの方が賢い。文盲の人の中にこそ、おそるべき賢人がいる可能性が高い。字が読めないからこそ
自ら考える人は、自身の実存に堅固に直結した思想を所有しているはずである。言うことと、することが完全に一致しているはずである。こういう人の前には、借り物の知識やあれこれの情報など、へみたいに吹き飛んでしまうだろう。
言うところの、学識経験者と言う人の中に、賢い人がいたためしがない。学力なんて
しょせんそんなものである。それが分っていてなお学力を推進するなら、国は国民に
賢くなられては困るのだ。 以上 本文より
この本は極論が多いけれど、こんな風に、分りやすい言葉で
バッサ、バッサと意見がのべられている哲学書。。らしい。分りやすくて、おもしろい本。
がばいばあちゃんが、全く字が読めなかったことは、ないだろうけれど、
少なくとも、なんとか還元水かなんとかかんべん水発言のおとりまきの人たちより
賢人であることは間違いない。